戦国時代の芝山と『山室譜伝記』
『山室譜伝記』とは
『山室譜伝記』は山室氏が活躍していた戦国時代から約160年後の江戸時代に書かれたものです。戦国時代から時間がたった江戸時代に書かれた本ということもあり、書かれた内容すべてが真実とは言えませんが、戦国時代の芝山町域の様子を伝える貴重な史料といえます。
飯櫃城主・山室氏
それでは、『譜伝記』の内容から戦国時代の様子をみてみましょう。
まず、山室氏とはどのような一族なのでしょうか。『譜伝記』によると、源為朝の子孫で、はじめ上総国山室村(現在の山武市)にいましたが、天文元年(1532年)に飯櫃城(現在の芝山町飯櫃)を築いて移り、常隆―氏勝―光勝―光慶と続きました。
山室常隆は下総国多古城主(現在の多古町)牛尾胤仲と合戦となり、牛尾軍を破り多古城を落城させました。その後牛尾軍によって飯櫃城を攻められましたが撃退して牛尾胤仲を滅ぼしました。
飯櫃城落城
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東を支配する北条氏を攻め滅ぼしました。秀吉は房総の城主たちに城を明け渡すよう連絡しましたが、当時の飯櫃城主・山室光勝は拒否し、籠城の準備を始めました。
同年12月、秀吉の命令を受けた保科正直の軍千騎あまりが飯櫃城に迫りました。戦いは27日夜、保科軍が村を焼き払い、翌朝城に攻めかかり始まりました。山室軍はよく防ぎましたが、かつて山室氏に敗れた牛尾胤仲の子、牛尾熊助が城内にて火を放ち、これをきっかけに保科軍が押し寄せました。最期を覚悟した光勝は、家老の怒賀家忠らと別れの盃を交わし、家忠は光勝の身代わりとなることを申し出、櫓上で切腹し果てました。この間に光勝と家忠の子・忠重は城を抜け出しますが、忠重は途中で戦死し、光勝も28日午後10時頃、自害しました。光勝の子・光慶は菱田まで落ち延び、慶長14年(1609年)まで生きました。
今も残る『譜伝記』の世界
現在でも飯櫃城跡には空堀や土塁の跡が残り、「城之内」「大堀切」「根古屋」「宿」などの城に関わる小字がみられます。
また、『譜伝記』には、怒賀、愛河、作間、斉藤、岩澤、飯田、笹河、児島などが山室氏の家臣として書かれており、これらの名字を名乗る人は現在も町内に多く住んでいます。
このように、『譜伝記』を読んでみると、戦国時代の痕跡が町内のあちらこちらに残っているのが分かります。戦国時代の芝山を知りたくなったら、ぜひ『譜伝記』を読んでみてください。
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